2019.9

 

 

 


File number 038

享和3年、虚舟(うつろぶね)事件とは・・
宇宙人との接近遭遇だったのか?

第二次世界大戦終了直後の1947年6月24日、実業家ケネス・アーノルドは自家用機を操縦している最中の事だった、信じられないほどの高速で移動する9つの謎の飛行物体目撃・・・・

この事件をきっかけに空飛ぶ円盤(UFO)が世に知られる事になる。

それより130年も前に日本で謎の円盤型の乗り物と、それに乗っていた女性の記録があった。
これが都市伝説になった「うつろ舟」である。

うつろ舟の蠻女
『兎園小説』第11集より

享和三年癸亥の春二月廿二日の午の時ばかりに、當時寄合席小笠原越中守〔高四千石、〕知行所常陸國はらやどりといふ濱にて、沖のかたに舟の如きもの遙に見えしかば、浦人等小船あまた漕ぎ出だしつゝ、遂に濱邊に引きつけてよく見るに、その舟のかたち、譬へば香盒(ハコ)のごとくにしてまろく長さ三間あまり、上は硝子障子にして、チヤン(松脂)をもて塗りつめ、底は鐵の板がねを段々(ダンダン)筋のごとくに張りたり。海嚴にあたるとも打ち碎かれざる爲なるべし。

上より内の透き徹りて隱れなきを、みな立ちよりて見てけるに、そのかたち異樣なるひとりの婦人ぞゐたりける。

その圖左の如し

兎園小説「虚舟の蛮女」日本随筆大成第二期巻一(昭和三年)より

そが眉と髮の毛の赤かるに、その顔も桃色にて、頭髮は假髮(イレガミ)なるが、白く長くして背(ソビラ)に垂れたり。
〔頭書、解按ずるに、二魯西亞一見?人物の條下に云、女の衣服が筒袖にて腰より上を、細く仕立云々また髮の毛は、白き粉をぬりかけ結び申候云々、これによりて見るときは、この蠻女の頭?の白きも白き粉を塗りたるならん。 魯西亞屬國の婦人にやありけんか。なほ考ふべし。〕そは獸の毛か。より絲か。これをしるものあることなし。
迭に言語(コトバ)の通ぜねば、いづこのものぞと問ふよしもあらず。この蠻女二尺四方の筥をもてり。特に愛するものとおぼしく、しばらくもはなさずして。人をしもちかづけず。その船中にあるものを、これかれと檢せしに、
水二升許小瓶に入れてあり。〔一本に、二升を二斗に作り、小瓶を小船に作れり。
いまだ孰か是を知らず。〕
敷物二枚あり。菓子やうのものあり。又肉を練りたる如き食物あり。

浦人等うちつどひて評議するを、のどかに見つゝゑめるのみ。故老の云、是は蠻國の王の女の他へ嫁したるが、密夫ありてその事あらはれ、その密夫は刑せられしを、さすがに王のむすめなれば、殺すに忍びずして、虚舟(ウツロブネ)に乘せて流しつゝ、生死を天に任せしものか。しからば其箱の中なるは、密夫の首にやあらんずらん。

むかしもかゝる蠻女のうつろ船に乘せられたるが、近き濱邊に漂着せしことありけり。その船中には、俎板のごときものに載せたる人の首の、なまなましきがありけるよし、口碑に傳ふるを合せ考ふれば。件の箱の中なるも、さる類のものなるべし。
されば蠻女がいとをしみて、身をはなさゞるなめりといひしとぞ。

この事、官府へ聞えあげ奉りては、雜費も大かたならぬに、かゝるものをば突き流したる先例もあればとて、又もとのごとく船に乘せて、沖へ引き出だしつゝ推し流したりとなん。もし仁人の心もてせば、かくまでにはあるまじきを、そはその蠻女の不幸なるべし。又その舟の中に、*****等の蠻字の多くありしといふによりて、後におもふに、ちかきころ浦賀の沖に歇(カヽ)りたるイギリス船にも、これらの蠻字ありけり。かゝれば件の蠻女はイギリスか。もしくはベンガラ、もしくはアメリカなどの蠻王の女なりけんか。これも亦知るべからず。當時好事のものゝ寫し傳へたるは、右の如し。圖説共に疎鹵にして具(ツブサ)ならぬを憾とす。よくしれるものあらば、たづねまほしき事なりかし。

※*****は図説の右上に書かれている謎の文字。

この「うつろ舟」の話は江戸時代、茨城県沖に出現したという、曲亭馬琴の兎園小説「うつろ舟の蛮女」(1825年刊行)が有名で、大まかな内容は・・・・・・

享和3年(1803)の春、2月22日のこと常陸国(茨城県)のはらやどり浜の沖合に、奇妙な形をした「うつろ舟」が漂着した。
村に住んでいた漁民たちは不審に思い、小舟を出して、うつろ舟を浜まで引いて来たという。

うつろ舟は、お香の入れ物のような形をしていて、直径三間(5.45メートル)舟の上半分にはガラスが張った窓があり、下半分は鉄板で作られていた。

うつろ舟の中を覗いてみると、異様な姿をした美女が乗っていた。
髪は赤く、顔は桃色でカツラのような白い長い髪を背中に垂らしている。
何処から来たのか話し掛けても言葉が通じなかった。

蛮女は二尺(約60センチ)四方の箱を、片時も離すことなく大事そうに抱え、誰も近づくことができなかった。
船内にあるものを調べてみると、水二升(3.6リットル)の入った小瓶、敷物二枚菓子のようなものなどがあった。

村人たちが集まって話し合っている様子を蛮女はだまって見守っていた。

村の古老が察するところ、「これは異国の王の娘で他に嫁いだが、浮気が発覚し刑罰で流されて来たのだろう、抱えている箱の中には浮気相手の男性の首が入っているに違いない」
そう考えると箱を離そうとしないことも納得できるというのである。

この事を幕府に報告するとお金がかかったり何かと面倒な事になるので、村人たちは蛮女を再びうつろ舟を沖に戻してしまった・・・・・

浮気がばれて海に流された女の話ということになる。
そして文中に「むかしもかゝる蠻女のうつろ舟に乗せられたるが、近き濱邊に漂着せしことありけり。(昔、やはりこのように蛮女がうつろ舟で流されて近くの浜に漂着したことがあった)」
とあるが、以前にも同じような事があったようだ・・・

當時好事のものゝ寫し傳へたるは、右の如し。 圖説共に疎鹵にして具ならぬを憾とす。
よくしれるものあらば、たづねまほしき事なりかし。
(当時の好事家が書き写して伝えたものは、右のようなものであった。図説ともに大雑把で具体的でないのが惜しい。もしこのことをよく知る者がいるなら、ぜひ詳しく聞かせてほしいものだ。)」と馬琴が最後に記していることから、馬琴の「うつろ舟の蛮女」以前に「大雑把な絵に簡単な文章」の別の資料が存在したのがわかる。

●この話は曲亭馬琴の「うつろ舟の蛮女」他、9の文献に記されている。

どの文献も、ほぼ同じ内容で享和3年、言葉の通じない女性が不思議な船で常陸国に漂着した。
舟は鉄でできており、ガラスが張られた丸い窓があり、舟には文字のようなものがかかれていた。
村人はまた沖に戻した・・・・という内容になっている。

馬琴の「うつろ舟」元になった話は・・・1825年以前の文献ということになる。

馬琴の「うつろ舟の蛮女」は、江戸の文人や好事家の集まり「兎園会」で語られた各地の奇談・珍談を書物にまとめたもの。
実はこの馬琴の「うつろ舟の蛮女」と同じ図版がカラーで存在する。
馬琴と同じ兎園会会員だった国学者・屋代弘賢の「弘賢随筆」(1825年)の図版だ。

屋代弘賢「弘賢随筆・うつろ舟の蛮女」 - 国立公文書館HP(http://www.archives.go.jp/)より

この屋代弘賢の「弘賢随筆」が元ネタかと思ったが、屋代弘賢と曲亭馬琴は同じ兎園会の会員なので、馬琴の添え書きから考え屋代弘賢もこれ以上のことは知らなかったということになる。

長橋亦次郎、梅の塵「空(うつぼ)船の事」(1844年)(無窮会専門図書館蔵)

あらすじは、享和三年、常陸の国、原舎浜というところに異舟が漂着した。
高さ約3.6メートル、横幅5.4メートルで釜のような形をしており、上が黒塗りで四方に窓があり、下の方は鉄筋が打たれていた。
中には一人の美しい女が乗っており、言葉は通じなかった。
舟には水や食料らしきものがあり、女は手に何か箱のようなものを持っていたが、決してそれを離そうとしなかった。
人々は漂着したその女を気の毒に思いながらも、へたに関わってお上に知れては大変と、大事になることを恐れて女を助けず、再び舟に戻して沖に返してしまった。
・・・・・と似たような内容だ。

駒井乗邨「鶯宿雑記」14巻「常陸国うつろ船流れし事」(国会図書館蔵)1815年頃

享和三年亥八月二日常陸国鹿嶋郡阿久津浦小笠原越中守様知行所より訴出候に付早速見届に参候処右漂流船其外一向に相分り不候に付
光太夫ェ遺候由之紅毛通じも参り候へ共相分り不申候由ウツロ船能内年能此廿一二才ニ相見ェ候女一人乗至て美女之船の内に菓子清水も沢山に有之
喰物肉漬能様成品是又沢山に有之候由白き箱一ツ持是ハ一向に見せ不申右の箱身を放さす無理に見可申と候ヘハ甚怒候由
船惣朱塗窓ハひいとろ之大きさ建八間余横十間余
右ハ予御徒頭にて江戸在勤のセつ能事之江戸にて分かり兼長崎へ被遣と聞しか其の後いつれの国の人か分かりや聞かさりし

これは東北の武士が江戸での噂をもとに記した日記。

※「鶯宿雑記」は、1815年頃の文献といわれているが、馬琴のものと比べ構図や謎の文字が似ておらず馬琴がもとにしたとは考えにくい。

茨城県水戸市で発見された古文書(個人蔵)

2010年に水戸市内の書画収集家が京都で入手した史料。
この古文書の特徴は、舟の大きさが18メートル四方、高さ14メートルで、今までの史料に出てくるうつろ舟より巨大だ。
謎の文字は上記の駒井乗邨「鶯宿雑記」に似ている。

   
鶯宿雑記
 
水戸市で発見古文書

木版摺物(作者不明、船橋市西図書館蔵)

他の古文書は「享和三年癸亥・・」の様に年号が記してあるのに、この瓦版は「去亥二月中かくのことく・・・」となっている、事件があった亥の年とは1803年。
「去」という表記から瓦版が次の亥の年1815年より前に書かれたことを意味している。

「漂流記集」小笠原越中守知行所着舟(著者不明、西尾市岩瀬文庫蔵)1835年以降

漂流記集は無人島へ漂着して帰国した日本人の船乗りの話やオランダ船中国船などの 漂着事件14篇を記録したもの。

「小笠原越中守の知行所である常陸国原舎ヶ浜と申す所に、図のような異舟が漂着した。
年頃は十八九か二十才 くらいに見へ、少し 青白き顔色にて 眉毛は赤黒く髪も同だった。
歯は至て白く、唇紅をひき、手は少しぶとう(色?)ではあるが、端々は綺麗だった。
見た目も良く、 髪は乱れて長い。

図のように、 箱を大切に扱っていた。
これは由緒あるものなのか、人を寄せ付けず言葉も通じなかった。
姿は器量がよく、日本においても美人といえるほうだろう。
異国の生まれなのだろうか。

一 鋪物弐枚至て和らかな物
一 喰物菓子とも見へ亦肉ニ□
  煉りたる物有之
  喰物何といふ
  事を不知
一 茶碗様の
  もの一ツ
  美敷もよふ
  有之石とも
  見へ
一 火鉢らしき物壱ツ
  □明ホリ有鉄とも見
  亦ヤキモノ共見
一 船中改候所如斯の文字有之
  右之通訴出申候

★茨城県日立市内の旧家で発見された史料の一部(1803年3月)

文末に「享和三癸亥三月廿四日」(享和3年3月24日)と文書作成日が記載。
事件が起きた年月日は「當亥二月廿二日」となっているので、1カ月後に書かれた文書ということになる。
この日付が本当であれば、元ネタになった可能性もある・・・・。

★忍者の家系から見つかったとされる史料

★長野県の古書収集家が所有していた史料


この資料は事件現場の地名が「常陸の国」でなく「房州の湊」と書いてある。

一、享和三年二月五日、小笠原越中守様
御知行所、房州の湊ニ如此舟吹付

常陸の国(茨城県)と房州の湊(千葉県南端)大きく違うのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・など

うつろ舟奇談は「兎園小説」など江戸時代の出版物に謎の事件として紹介され、事件を伝える瓦版なども見つかっているが、当時の公文書には記録はない。

どの資料も似たり寄ったりで、UFOと決めつける証拠が見つからない。
それぞれの事件を比較してみると、いくつかの共通点がある。

●丸い形の乗り物で窓がある、下半分には縦の線がある。
●謎の文字。
●箱を持った女、言葉が通じない。
●流れ着いた場所が常陸国(茨城県)
●年代(享和3年)

このうつろ舟の形はUFOなのだが、どの資料にも空を飛んでいたと記してないのだ。
資料によると「流れ着いた・・・」となっている。

一説には、「日本一社蚕影神社御神徳記」に出てくる、北天竺の金色姫がモデルだと言われる・・・
我が国の養蚕は茨城ではじまったといわれ、つくば市、神栖市、日立市の神社にのこる養蚕発祥の伝説には、天竺(インド)からやってきた美女が登場する。

・・・・・残された文献からして、江戸時代に、このような事件があったのだろうけど、真相はなぞのまま。