2022.10
 

 


File number 062

日本にあったキリストの墓
(青森県)

今から2000年ほど昔、ゴルゴダの丘で処刑されたイエスは、この丘の近くに埋葬され、3日後に復活したと伝えられています。

一般的にキリストの墓は、イスラエルのエルサレムにある「聖墳墓教会」内に存在するといわれていますが、度重なる戦争でイエスの墓の正確な位置は、わからなくなりました。

この聖墳墓教会は、岩壁をけずって作られた、イエスの墓のうえに、4世紀にローマ皇帝コンスタンティヌス1世によって建てられたとされています。
しかし、エルサレム周辺には岩壁を削って作られた、イエスの墓に似た墓は1000箇所以上発見されているのです。

■なぜ日本の青森県にキリストの墓があるのか?

ゴルゴダの丘で磔刑されたのはキリストではなく、弟のイスキリが身代わりになり、キリスト自身は磔刑の直前にエルサレムを脱出。
そして世界中を旅し、最終的に行きついたのが青森県三戸郡新郷村、以前は「戸来村」と呼ばれ、キリストはこの地で106歳まで生きて、天寿をまっとうしたといいます。

この話、どこから沸いて出たのでしょうか?
出所はあの「竹内文書」でした!
竹内文書と言えば、とんでもファイルナンバー056「モーゼの墓が日本にあった!」、ナンバー057「尖山は日本ピラミッド?」でおなじみの古代文献です!


茨城県北茨城市にある、皇祖皇大神宮の竹内家に伝わる「竹内文書」によると・・・
キリストは神倭朝第十一代垂仁天皇のとき、十字架の難を弟の身代りによって逃れ、 日本の八戸に上陸、青森県の戸来村に住み、106歳でなくなったと記されています。

このキリストの日本渡来説を広めたのは、ファイルナンバー056「モーゼの墓が日本にあった!」に出てきた山根キクでした。

昭和13年、キリ ストの日本渡来説を全国各地に残る遺蹟や習俗から、立証したセンセーショナルな著書『光は東方より』によって、新郷村は神秘の村として注目をあびるようになりました。

■八戸から十和田湖にむけて国道454号を走っていると、新郷村役場を過ぎて少し行くと「キリストの墓」と書かれた道路標識が見えてきます。

国道沿いにあるキリストの墓は「キリストの里公園」と名づけられ整備されています。

公園内の説明板によると、イエス・キリストは21歳の時、日本にわたり、12年間のあいだ神学について修業を重ね33歳のとき、ユダヤに帰って神の教えについて伝道を行いましたが、その当時のユダヤ人たちは、キリストの教えを容れず、かえってキリストを捕らえて十字架にたっけいに処さんといたしました。

しかし、たまたまイエスの弟イスキリが兄の身代わりとなって、十字架の露と果てたのであります。
他方、十字架の磔刑から逃れたキリストは、艱難辛苦の旅を続けて、再び日本の土を踏み、この戸来村に住居を定めて、百六才長寿をもって、この地に没しました。
この聖地には、右側の渡来塚にイエスキリストを、左側の十代墓に弟イスキリを祭っております。
以上はイエスキリストの遺言書によるものといわれております。

キリストは戸来村で、地元の女性と結婚し十来太郎大天空(とらいたろうだいてんくう)と名乗り106歳まで生き、その子孫は沢口姓を名乗り、現在も当地に住んでいるのです。

この上の高い場所に、十字架の立てられた、二つの丸い塚が並んでいます。

手前がキリストの墓で、奥に見える墓が弟イスキリの墓です。

■2つの盛り土がキリストの墓になった経緯は・・・

この2つの盛り土が、なぜキリストの墓になったのでしょうか?
最初のきっかけは、青森県七戸出身の鳥谷幡山という日本画家で、昭和9年(1934)に十和田国立公園区域に編入漏れした戸来村の村長佐々木伝次郎が、村おこしと宣伝に力を貸してもらおうと考え,鳥谷幡山を招きました。



日本画家の鳥谷幡山は日本ピラミッド第一発見者・酒井勝軍と知り合いで、昭和9年に見つけた大石神のピラミッド確認のため、昭和10年夏、竹内巨麿と戸来村を訪れました。



当時「墓所舘(はかどこだて)」と呼ばれていた丘の上で2つの盛り土を「竹内文書」に記されたキリストの墓とし、向かって右側が「十来塚」と呼ぶキリストの墓で、左側が弟イスキリの「十代墓」と断定しました。

■日本語で書かれたキリストの遺書

昭和11年には考古学者の一団が日本語で書かれた「キリストの遺書」を発見しました。

「キリストの里伝承館」には、かつて村で使われていた農耕具や衣服、キリストの末裔の写真やキリストの遺言書などが展示されています。

キリストの里伝承館 
開館時間/午前9時〜午後5時
入館料/ 高校生以上 200円、小・中学生  100円
※20名様以上の団体は半額
休館日/ 毎週水曜日
※夏休み期間中は無休 ※冬季休
問い合わせ先/ 青森県三戸郡新郷村大字戸来字野月33-1
TEL 0178-78-3741
冬季間の問い合せ先/ 新郷村ふるさと活性化公社
TEL 0178-78-2511

■イエス・キリストの家族構成

「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」などによると、父ヨセフ、母マリアのほかにヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダという弟と、妹2人がいたとされています。
※従兄弟も兄弟と表したりしたと考えている研究者もいます。

竹内文書によると、弟がイスキリでイエス・キリスト本人は「イスキリス・クリスマス フクノ神」 という・・・・・名前からして怪しいです。
イエス・キリスト→イ●スキリ●●

ゴルゴダの丘で磔刑され、死んだ3日後に復活したのは、キリストではなく弟のイスキリって事??!

■地名「戸来」は「ヘブライ」?

「古代史書研究会」は戸来村の村名は、ヘブライに由来するとしました。

※この地が合併して新郷村になる前は「戸来(へらい)村」。
戸来はヘブライから転化したものだそうです。

■「ダビデの星」の家紋

キリストの墓一帯の土地を所有する沢口家の家紋は、五角形の桔梗ですが、かつては“六芒星”でイスラエルのシンボルであるダビデの星と同じ紋章だったといいます。

十来太郎大天空と名乗ったキリストは、十和利山にエデンの園を作り、ミユ子という地元の女性と結婚し3人の娘をもうけました。
その長女が沢口家に嫁いだと伝えられています。

伝承館にはキリストの子孫と伝えらえる、昭和10年当時の沢口家当主(三次郎)の写真が展示されていますが、日本人離れした顔立ちだったといいます。

■村では子どもの額に十字を書く風習がある。

村には、初めて戸外へ出る赤ん坊の額に墨で十字を書く風習があり、これは魔除けの呪文で、近隣や他県では例を見ない風習だそうです。

この地方では父のことを「アヤー」、母のことを「アッパー」と呼び、イスラエルでの呼び方と似ている・・・とか(ヘブライ語では父親=アバ、母親=イマ)。

■「ナニャドヤラ」という意味不明の唄

毎年6月の第一日曜日に「キリストの里公園」で開催される「キリスト祭」では、墓を囲んで謎の盆踊りで慰霊する。
ナニャドヤ〜ラ〜 ナニャドナサレ〜テ〜 ナニャドヤ〜ラ〜」意味不明の歌詞について、神学博士の川守田英二がヘブライ語で「御前に聖名をほめ讃えん 御前に毛人を討伐して 御前に聖名をほめ讃えん」という意味だと発表しました。

この「ナニャドヤラ」という謎の盆踊り唄は、旧南部領であった青森県八戸、野辺地、戸来、五戸、三戸、岩手県では二戸郡、九戸郡、岩手郡など、いわゆる県北の南部領一帯に伝わる盆踊りの唄で新郷村に限ったものではありません。
キリスト祭りも神父ではなく地元神社の神主が墓前で祝詞を上げる神道式で行われます。

ナニャドヤ〜ラ〜 ナニャドナサレ〜テ〜 ナニャドヤ〜ラ・・・・・・・
なにや どおやら、 なにや どおなされだ、 なにや どおやらよ〜

日本語読みにすれば、 青森県南部から岩手県北部、秋田県鹿角地方の方言で立派な日本語なのです。
「どおなされだ」は今でも使われています!

新郷村に伝わる「キリスト伝説」は、もともと村に伝わるものではなく、昭和9年に十和田国立公園区域に編入漏れした戸来村の村おこしのいため、竹内巨麿が竹内文書を元に断定したのが真相でした。

近くにはキリストの墓の発端になった大石神ピラミッドもあり・・・・・夢とロマンの青森県に訪れて見るのも良いかもです。

最後に、昭和53年12月号。日本神学に掲載された、神学博士の川守田英二は、「日本ヘブル詩歌研究」と題した上下二巻の著述には、自序の部分に次のよう に述べています。

「私の研究は最近しばしば、青森県戸来村のキリストの墓に結びつけられて考察される。
今は故人となつたそ うであるが、竹内きょまろという人は一部の日本自由宗教思想家達に、霊能の人として尊敬されている。
この人は北 陸にいる頃は、越中古もんじょを発表し、栃木県磯原に移 つてからは人磯原古もんじょを発表した。
越中では釈尊や 孔子の墓をつくり、磯原に来ては青森県まで行って、とう とうキリストの墓まで建てた。
1935年の夏、私が 戸来村に踏み込んだ。
その翌年に磯原の 記録に基づき、お墓ができ、キリストの末孫までも認定されたというの だから恐れ入る。
そして日本におけるキリストの遺跡を探るという映画ができて、その証拠固めに私の発見したイスラエルの国歌ヘナギャド・ャラが映画の中に出てくるというのだからやり切れない。

イエスキリストは十字架にかからず日本へ亡命し、 弟が身代りになつて死んだなどと、唐突無稽な伝説をデッ チ上げることは、門外漢には面白くも可笑しくもあろう が基督教の立場からは絶対許容すべからざる不敬事件ある・・・・・・」

昭和49年7月11日号。
昭和53年12月号「日本神学」掲載

イエスの墓所の上に立てられたとされる、エルサレムの聖墳墓教会も、この地点がイエスの墓所であることを立証する文献学的・考古学的根拠もまた存在していないのです。