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number 078 ■寛永11年11月7日(西暦1634年12月26日)鍵屋ノ辻(現三重県伊賀市小田町) 「鍵屋ノ辻の決闘」は、寛永11年11月7日に、渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀上野「鍵屋ノ辻」で討った事件です。 ■事件の概要 事件の発端は、岡山藩主・池田忠雄の寵童( ちょうどう )であった渡辺源太夫に、思いを寄せた河合又五郎は源太夫に言い寄るが、断られてしまいました。
源太夫の死を知った藩主、池田忠雄は激怒し、又五郎の処罰を要求します。 寛永10年、剣術が未熟であることを自覚する源太夫の兄、渡辺数馬は大和郡山藩につかえる姉婿の剣術指南役、荒木又右衛門に助太刀を頼みます。 河合又五郎の行方を追い求めて、渡辺数馬、荒木又右衛門、数馬の従者、森孫右衛門、岡本武右衛門の4人は旅立ちました。 渡辺源太夫が殺害された、寛永7年7月21日から4年3ヶ月たった、寛永11年11月6日。 これを知った数馬と又右衛門等4人は、翌7日の早朝、伊賀上野城下、西のはずれの鍵屋ノ辻にある「萬屋」という茶屋で待ち伏せていました。 ■戦いは辰の上刻に始まりました。(いまの時間にすると午前7時から7時40分になります) 戦力的にみると4対4といった戦いでした。 渡辺数馬も河合又五郎も剣術は得意でなかったようで、決着がつくまでに6時間がかかりました。 講談や歌舞伎では「荒木又右衛門の36人斬り」として有名な事件ですが、 実際は又五郎側の人員は11名で、荒木又右衛門が斬ったのは同じ郡山藩の上席剣術師範、又五郎の叔父に当たる、河合甚左衛門。 寛永15年8月7日。 8月13日、3人は鳥取に到着しますが、その17日後に鳥取藩は荒木又右衛門の死去を公表しました。 荒木又右衛門の死があまりに突然なため、毒殺説、生存隠匿説など様々な推測が飛び交っています。 現在の鍵屋ノ辻は、南側に鍵屋の辻の決闘を記念する「鍵屋ノ辻史跡公園があります。
また荒木又右衛門ら4人が待ち伏せをした、萬屋のあった場所に建てられた数馬茶屋も、築90年を超えて建物の老朽化と耐震強度不足のため、2023年6月30日に閉店しました。 ■鍵屋ノ辻の昔、今。 鍵屋ノ辻は明治以降、旧跡として整備が進められました。 画像(明治後期)は、伊賀越復讐記念碑が建設される前の様子で、伊賀越仇討記念碑建設地の標柱が建てられています。 ■■■ 記念碑は、伊賀上野の実業家田中善助の発起により、明治43年5月に完成しました。 ■■■ 画像(昭和17年)左の建物は、昭和4年に田中善助らにより建設が進められた数馬茶屋です。
以上が、寛永11年11月7日。
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