2024.4.16
 

 

File number 078
-鍵屋ノ辻の決闘-

■寛永11年11月7日(西暦1634年12月26日)鍵屋ノ辻(現三重県伊賀市小田町) 

「鍵屋ノ辻の決闘」は、寛永11年11月7日に、渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀上野「鍵屋ノ辻」で討った事件です。
戦いは午前8時に始まり、終わるまでに6時間を要したと言われています。

■事件の概要

事件の発端は、岡山藩主・池田忠雄の寵童( ちょうどう )であった渡辺源太夫に、思いを寄せた河合又五郎は源太夫に言い寄るが、断られてしまいました。
拒絶された、河合又五郎は源太夫を斬殺したのです。



※寵童( ちょうどう )とは、戦国時代の男色。
女性を連れていけない戦場において女役をする美男子のことです。

源太夫の死を知った藩主、池田忠雄は激怒し、又五郎の処罰を要求します。
しかし、河合又五郎は江戸へ逃亡し、旗本の安藤治右衛門に匿われます。

身柄の引き渡しを申し出ましたがこれに応じなかったため、又五郎を匿った旗本安藤家と、藩主池田家の間に大喧嘩が勃発!
外様大名と旗本まで巻き込んだ大騒動になりました。

寛永10年、剣術が未熟であることを自覚する源太夫の兄、渡辺数馬は大和郡山藩につかえる姉婿の剣術指南役、荒木又右衛門に助太刀を頼みます。

河合又五郎の行方を追い求めて、渡辺数馬、荒木又右衛門、数馬の従者、森孫右衛門、岡本武右衛門の4人は旅立ちました。

渡辺源太夫が殺害された、寛永7年7月21日から4年3ヶ月たった、寛永11年11月6日。
河合又五郎は、叔父の郡山藩剣術指南役の河合甚左衛門、又五郎の妹婿である、「霞の半兵衛」と呼ばれる槍の名手、桜井半兵衛らに警護され、潜伏先の奈良から笠置を越えて、江戸に下ろうとしていました。

これを知った数馬と又右衛門等4人は、翌7日の早朝、伊賀上野城下、西のはずれの鍵屋ノ辻にある「萬屋」という茶屋で待ち伏せていました。

■戦いは辰の上刻に始まりました。(いまの時間にすると午前7時から7時40分になります)

渡辺数馬、荒木又右衛門、森孫右衛門、岡本武右衛門の4人対、河合又五郎、河合甚左衛門、桜井半兵衛、虎屋九左衛門をはじめ槍持ち、武家奉公人、馬方など合計11人。

戦力的にみると4対4といった戦いでした。

渡辺数馬も河合又五郎も剣術は得意でなかったようで、決着がつくまでに6時間がかかりました。

数馬はなんとか又五郎を討ち果たしたものの深手を負い、岡本武右衛門1人が死亡したと伝えられています。

講談や歌舞伎では「荒木又右衛門の36人斬り」として有名な事件ですが、 実際は又五郎側の人員は11名で、荒木又右衛門が斬ったのは同じ郡山藩の上席剣術師範、又五郎の叔父に当たる、河合甚左衛門。
尼崎藩槍術師範の桜井半兵衛の2名のみでした。

寛永15年8月7日。
渡辺数馬、荒木又右衛門、森孫右衛門の3人は鳥取藩が引き取ることになり、預け先の藤堂家の家臣に護衛され伊賀を出発。
京都伏見経て鳥取へと向かいました。

8月13日、3人は鳥取に到着しますが、その17日後に鳥取藩は荒木又右衛門の死去を公表しました。

荒木又右衛門の死があまりに突然なため、毒殺説、生存隠匿説など様々な推測が飛び交っています。
一方、又右衛門は、寛永20年9月24日死去という説があります。
寛永15年急死と発表されたのは、河合又五郎の一派による暗殺を恐れて病死をよそおった、などと言われていますが、 鳥取市内の玄忠寺にある荒木又右衛門の墓には、寛永拾五戌寅暦八月廿八日と彫られていることから、死因は不明ですが、没年は一般的に認められている、寛永15年8月28日ということになります。

現在の鍵屋ノ辻は、南側に鍵屋の辻の決闘を記念する「鍵屋ノ辻史跡公園があります。



公園内には、荒木又右衛門の遺品や錦絵などを展示した伊賀越資料館がありますが、建物老朽化のため2019年4月1日から休館となっています。

また荒木又右衛門ら4人が待ち伏せをした、萬屋のあった場所に建てられた数馬茶屋も、築90年を超えて建物の老朽化と耐震強度不足のため、2023年6月30日に閉店しました。
「数馬茶屋」は伊賀市が約2年かけて補強工事を実施するそうです。

■鍵屋ノ辻の昔、今。

鍵屋ノ辻は明治以降、旧跡として整備が進められました。

画像(明治後期)は、伊賀越復讐記念碑が建設される前の様子で、伊賀越仇討記念碑建設地の標柱が建てられています。

■■■

記念碑は、伊賀上野の実業家田中善助の発起により、明治43年5月に完成しました。

■■■

画像(昭和17年)左の建物は、昭和4年に田中善助らにより建設が進められた数馬茶屋です。
現在は道路拡幅で、南側の公園内に移動しました。



道を挟んで右には、文政13年に建てられた「みぎいせみち 。ひだりなら道の道標があります。
1990年代までその区画に「かぎや」という茶屋がありました。

以上が、寛永11年11月7日。
渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀上野の鍵屋の辻で討った事件の全貌です。